おじさんの自覚

おじさんの自覚というものは、そんなに強く持たなければならないものなのだろうか。「みんなそうだ」とは聞くが、私も例に漏れず、自分がとても大人になったとは思えないまま年齢だけ立派になってしまった。精神年齢はほぼ17歳の頃から変わっていないし、その17歳というのが、手垢の付いた月並みな表現通り、昨日のことのように思えてならない。それは、大人になりきれなかったという否定的な感覚であると同時に、まだ自分は若いのだという肯定的な感覚でもあるのだが、後者については、それを当然のように社会の方が否定してくる。

若者は若者ぶる大人が鼻につくようだ。若者とオッサンの対立をあおる記事を目にしない日はない。何となく身に覚えがあるような気もするが、それを都合良く忘れてしまうくらいには私も歳を取ってしまったのだろう。とはいえ、人一倍弁えているつもりだ。「弁えているつもり」というのもウザがられるかも、と若者から距離を取ろうとする自分がいる。

しかし、自分が殊更に年を取り、もう人生にチャレンジできないとは、自分では微塵も思っていない。人間は何歳までに何をやって、何歳までにどうなっているべきだ、という話には耳を貸さないし、何歳までに何ができていなければ取り返しが付かない、というような話も心からは信じていない。もう歳なんだから無理はできないとか、身体にガタが来るとか、後は穏やかに生きることだけを考えろとか、若い奴と比べたら随分老けたなとか、そうやって私自身の「弁え」を超えて、こちらの気を削ぐようなことを言ってくる人間が多すぎる。それはほとんどが自分より上の年齢の奴ばかりで、まるで自分が諦めたことを正当化するために一人でも多くの脱落者を集めているように思えるときがある。

私が病弱なのは今に始まったことではないし、むしろ自分の身体のことを意識的に観察して鍛えられるようになった今、健康や気力や体力は年追うごとに充実しているとさえ思っている。無為な青春時代を過ごした私に、いや今からでも(代替ではなく)あの頃のように青春を送ることはできると言い切ったのは、生意気盛りの若きTくんであった。若者は若者ぶる大人が鼻につくかもしれないが、一方で若々しく生きようとする大人に少なくとも嫌悪感を抱かないのかもしれない。私もきっと彼くらいの年の頃、いまの私の歳くらいの人間に、同じことを言ったかもしれない。だとしたら、それは若い私が、ただの励ましでではなく、本心からそう言ったに違いない。それが通じなかったのは、受け手にそれを実現するだけの気持ちが残っていなかっただけのことだ。

かつて若い頃「若いから何でもできる」と言われたのが苦しかったように、いま「歳を取ったからもう手遅れ」と言われるのもまた辛い。しかし、自分が数字の上で若さを失ってしまったからこそ思うのは、年齢というのは全くただの数字に過ぎないということだ。必要なのは自分が何のために立ち上がるのかという意思であり、年齢を理由に生きるのに卑屈になったり遠慮したりすることはないと思う。

AIが人間から奪ってしまうもの

イーロン・マスクが何か言っていたらしい。要するにAIが究極にまで発展してシンギュラリティが起こったような世界がもう間もなく実現される。その時、学位に価値はなくなる。つまり時間と金を使って知識を学ぶというのが非効率で無駄になる。そして、労働は全てロボットに置き換えられ人は働く必要がなくなる。その結果、お金に価値がなくなり、老後の資金を貯めるというのも笑い話になると。

すでに何度も書いた話かもしれないが、私は常々、いま自分がやっているおままごとのような仕事が早晩AIに置き換わると思っていて、しかしその延長として何もかもがAIに置き換わった結果、人間は何もしなくてよくなり、ついには「生きていなくてもいい」になる、と思っている。

AIに聞けばすぐ分かることを学ぶのは無駄、自分がやるよりAIがやる方が正確性もスピードも上だから仕事をするのは無駄、そもそもお金がなくても生きていけるんだから賃金をもらうための仕事も無駄、となったら人間は何のために生きていくのだろう。

例えば私は映画やドラマや小説が好きだけれど、映画やドラマや小説を書くのはそれを仕事とする人間であり、その人間がいなくなれば、AIが作った「何物」かを摂取して生きるしかない。とても不気味だ。脳みそに快楽物質を直接注射してただ堕落していく得体の知れない生命体の姿が思い浮かぶようである。

私は学問をやって、自分で考え、何かを作り出し、志を共にする仲間と闘いながら生きていきたい。それが叶わずに悔しい思いをしながら生きているが、底に自分の人生をかけ、抗う価値があると思っている。AIは物質的な豊かさを保証してくれるかもしれないが、人間から大変なものを奪おうとしていると思わざるを得ない。そして、それがすでに始まっている。私がこんなに落ち込んでいる。

マクドに何時間いるんだよ

仕事終わりにA君とS先輩と食事に行って、ちょっとお茶でもしよかと例のごとくマクドに行き、ビックリしたね、今日は11時半まで4時間半話していた。しかも、もう終電だから!と私が切り出さなかったらまだ続いていたぞあれ。そもそもA君は「今日はちょっとお茶したらすぐ帰る」とか言ってたのに、途中で追加注文したり、9時近くになって「そろそろ(帰ろか)」と言ったかと思えば、座り直して「喉渇かん?」とか言い出す始末。

三人とも年齢が全然違うけど、言ってることもやってることもほとんど高校生みたいな感じで、得がたい友人を得たなぁと思っている。ただ、共有しているものがやはり職場の話だから、きっと私が辞めてしまったら二人と話をしても今ほど楽しくはないんだろうなぁなんて。ショーシャンク刑務所だの「サヨナラCOLOR」なんかをいつも思い出す。

ところで、私はA君の会話の展開やツッコミのスピードや深さに付いていけないところがあったけれど、今日何かが見えた気がする。というか、私はこういうコミュ力お化けに自分のことを何か言われたときに真に受けすぎるところがあって(厄介)、どうしても自分を開示することに尻込みしてしまうんだけど、多分彼の私に対する悪意がないのを、(前から一応分かっていたけれど)何となく今日きちんと確認できたのだと思う。

それから3人だったというのがきっと良かった。これが4人5人となっていくと、私は自分で存在感を薄めていき、最終、精神的に帰宅を始めてしまうところがある。

正直、終電さえなかったらいつまで続いても良いくらい楽しかった。みんないつもこんな感じで生きてんのかな。いいなぁ。

ラストイヤー(約13回目)

昼休みにAちゃんと話していた。私は例年「今年が(この会社で働く)ラストイヤーだ」と公言し続けており、もはや誰からも信じられていない。彼女は私の「ラストイヤー」発言を初めて聞くので、当然最初は真に受けていた。たいていの人はやがて呆れ顔になり、そこから「辞めてどうするの?」とか「何かやりたいことがあるの?」と聞いてくるのだが、彼女は少し違って、「どうして辞めたいの?」と言うのだった。

私は社会との関わりを絶ちたいわけではない。仕事をしないで遊んで暮らしたいわけでもない。ただ、自分の苦手なことで消耗しながら生きたくないだけである。仕事を仕事とも思わないくらいに没頭できる仕事なら、是非それをやりたいくらいだ――ということを、瞬間的に口ではあまり上手に話すことができなかったが、「じゃあ、そさんには一体何が合うのかなぁ」となり、そこで初めて「何かやりたいことがあるの?」と聞かれたわけである。この人は会話が上手すぎる。

そしてAちゃんは、天職をすでに見つけていると自分から切り出す。ミスドの店員が自分の天職だと。ドーナツが好きだし、商品名も季節限定商品も把握してるし、客が自分でドーナツ取って持ってくるタイプの店舗なら私はイケる。そして、社会との関わりと、規則正しい生活リズムを維持するための最低限の頻度で働きたいというのだ。この人の話を聞いていると、何だか生きていくことに対する緊張がほぐれていくような気がする。

ちなみに、彼女が私に勧めてくれた職業は、「たこ焼き屋の頑固親父として調理に専念し、若い女を雇って接客はそれに任せる」「キッチンカーでベビーカステラ」である。私をテキ屋か何かにしようとしているのか。それから「レンタル彼氏」。もちろん、全部却下した。でも、自分には想像もできない職業を選択肢として持っていても良いのかもという変な感慨があった。

舞台劇の相対的価値向上

ホワイトカラーの仕事がAIに取って代わられ、これからはブルーカラーが重宝されるように、というような話を聞く。これは相対的にホワイトカラーの価値が下がるというだけのことで、そもそもブルーカラーが重要な職業であることには何の変わりもない。

私も、頭脳・知性・精神の方が上位にあって、身体・運動・肉体の方が下位にあるというような認識で漠然と生きてきたが、ここ5年ほどで丸きり認識が変わってしまった。その反映として武術を始め、それによってますます認識を深めているところである。

自分の興味のあるところでいうと、映画やドラマの価値がこの先どんどん下がっていくような気がする。脚本も映像も俳優も、全部AIで成立してしまうからだ。映画『ファイナルファンタジー』が大コケした時とはもう時代が違うのだ。

しかし、だからといって人間が創作することをやめるとは思えない。だからきっと、この先、人は劇場に、あるいはテントの中に、もっと演劇を見に行くことになるのではないか。ま、その役者が実はAIでした、という世界もそう遠くはないのかもしれないけれど。

演技と創造力

私は時代劇が好きだけど、一方で時代劇が好きじゃないという人の意見が何となく分かる。というか、それは私自身が時代劇に対して不満に思っていることかもしれない。

先日、今やっている大河ドラマに対して「演技が軽い」「時代劇っぽくない」というようなコメントがあったのを見ても思ったことだ。その「時代劇っぽい」「重厚な」演技というのは一体何物なんだという話である。

確かに、世界観というのはある。だから、江戸時代の話なのにギャルが出てきたり、変な横文字ばかり使うチャラい奴が出てきたら台無しになってしまう。でも、実のところ江戸時代の人たちはどんな人間だったのか。どんな風に振る舞って喋っていたのか、その本当の姿を私たちは知らない。

私たちが「時代劇っぽい」と思っているものは、誰かが始めた時代劇を、その次の誰かが真似し続けているだけのものに過ぎない。そこが現代劇との大きな違いだ。だから役者は、実際の侍も町人も見たことがないくせに、堅苦しい台詞回しで仰々しく振る舞ったり、べらんめえのお調子者をやったりする。誰がやっても同じ。みんなステレオタイプなのだ。

梅津栄は公家を演じるときに「おじゃる」という語尾をつけた。馬鹿馬鹿しいがめちゃくちゃクリエイティブだ。しかし、その後、公家といったらみんな「おじゃる」である。誰も本当のお公家さんなど見たことはないのだ。みんなが見たのは梅津栄であり、梅津栄の真似をした次の誰かである。時代が下るにつれて、役者が劣化コピーのような様相を呈しているように見えて仕方がない。

現代劇との大きな違いといったけれど、俳優としての訓練を積んでいない人間とか、勘の悪い人間は、創造的な(想像力のある)演技をしないという点で実は似たようなものかもしれない。視聴者の側が、そのステレオタイプに慣れきってしまった結果、「っぽくない」などと言いだしてしまうと、いよいよおしまいという感じがする。

同様に、私はあまりアニメに興味が持てない。理由の一つに、声優の問題がある。現代のアニメの声優たちは確かに技術的には高いものを持っているのかもしれないけれど、さてその声優のファンでもない限り一体どれだけの人がその人の演技を認識できるのだろうか。興味がないせいもあるだろうが、私は「ああ、『声優』って感じだね」と思って冷めてしまうところがある。

宮崎駿が技術的に決して上手とは言えない俳優を起用するようになったのも、声優業においてもコピーが繰り返された結果、そこに「アニメの演技」という様式を演じる声優が見えてしまったからではないか。自分が書いた絵に、創造的に命を吹き込んでくれる役者を求めていたのではないか。庵野秀明はさすがにひどかったとしても。

これは体調が悪いせいだ

風邪引いた。前回はいつだったかな。ここのところ毎日ヘトヘトになるまで疲れて、回復が追いついていない実感があって、昨日もパソコンで作業をしているときもガクンと落ちてしまうくらいだった。少し早く仕事を切り上げてファミレスに入ったところ、ここは冷蔵庫かというくらい冷えていて、ドリンクバーで甘めの温かい飲み物をガブガブ飲んでいたのだった。何が悪かったのか分からない。多分、全部が悪かったのだろう。そして今日、かき氷を食べたのがトドメになったような気がする。

毎年、夏は疲れて、冬は寒さで、体調を崩す。体調を崩すと、気持ちがダメになる。何もかもが上手く行かないような気がする。このまま仕事を続けたって行き詰まる、仕事を辞めたって生きていく術はない。世間からつまはじきにされ、人からは疎まれ、孤独死まっしぐらだ――。そんな風に、実際以上の無力感を覚える(そうであることを祈る)いうことを理解しているから、これはただ体調が悪いだけなんだって自分にずっと言い聞かせている。

人生に没入したい

もしかすると、みんなもそうで、当たり前のことを言っているのかもしれない。

いつも私を見ている、もう一人の私がいる。あるいは、私が「私」という着ぐるみの中にいるような感覚がある。大きな着ぐるみの中に自分がいて、真っ暗な空間の中で、目の部分から外の世界を見ている。実際の世界に触れるのは着ぐるみの私。本当の私は、着ぐるみの中から、着ぐるみの私が行動する様子を見ている。

上の空というのか、心ここにあらずというのか、私という身体を操作している、私という心がいる感覚。Self1とSelf2なんて言葉があるくらいだから、勿体つけて話すようなことでもないだろうが、いつもそうやって実際に動いている私を、もう一人の私が批判的に(文字通り批判しながら)見ているようなところがある。

このもう一人の私はどこに行っても付いてくる。これが付いてこないのは、物語の世界だけだ。というより、物語に触れているときは、心だけになっているのかもしれない。あるいは、心と体が一致しているのかもしれない。いずれにしても、もう一人の冷めた、口うるさい私が消える。消えなくても、存在が希薄になる。

そのくせ冷静沈着に物事に対応することはできず、何事にもあたふたして、その場で上手く振る舞えない自分に落ち込む。生きるのが下手である、という自覚だけが異様にはっきりしている。そんなものはなしに、私はただ人生に没入したいだけなのだ。

恋愛に欠かせざる条件

人はわかり合えないと思っている。でも、この人なら自分を分かってくれるかもしれないと思える人が時折現れることがある。そして、自分もまたこの人のことを理解することができるのではないかと思うことがある。

もちろん、それが幻想であることは分かっている。期待はしない。だけど、希望は捨てたくない。そう思えるからこそ、その人と関係が成立するのだと思う。私にとって、こと恋愛に関しては、この感覚がなければまず先に進むことがないような気がする。そうでなければ、話に浅さを感じて飽きてしまうのだ。

今は自分を理解して欲しいとも思わないし、誰かを理解したいともさほど思わない。そう思うことを拒むようなところがある。つまり、誰かに恋愛感情を抱くことを恐れているのかもしれない。行き着く先が見えてしまうからだ。そもそも、私は誰かに恋愛感情を抱いたことがあるのだろうか。恋愛感情って一体何なんだろうか。

それで、ただ漠然と肉欲だけが残っているような感じで、街行くカップルなどを指をくわえるような思いで見ているのだが、しかし私が彼や彼女らに見ているものは一体何なんだろうかと思う。

綺麗だな、可愛いな、というところから入った感情が、結局恋愛関係に発展したことはない。だからこんな風に思っているだけなのかもしれない。そんな生物的に反応するような相手と結ばれたら、とろけるような感覚に身を任せることができるのだろうか。いや、できたのだろうか、と言わなくてはならない。

時間を忘れて話をする

仕事終わりにS先輩に呼び出され、職場の近くのマクド(マック)に行った。S先輩は、最近唐突に丸坊主にしたり、何だか意味深なメッセージを残して「詳しくはいずれ」などと言うものだから、とうとう何事か起こったのだろうと心配していたのだった。遂にその全容を知ることになるのだと、僅かながら身構えていたのだった。

これが全くの杞憂であった。エロビデオが母親に見つかってしまったレベルの話である。坊主もそれとは何の関係もない。それで何を話したかといえば、もう全く思い出せないくらい下らない話ばかりである。熊と戦ったら負けるけどサメなら勝てるとか、仮に○○さんが若かったら付き合えるかとか、そんな話ばかりであった。

18時に落ち合って、気がつくと21時までもう間もなかった。およそ3時間、時間を忘れて話していたのだった。40前後のオッサンが、マクドで、コーヒーとポテトだけを肴に。高校生かよ。いや、高校生でももっと大人な話をしている

いま会社でこれだけ仲良く話ができて、気まずいなぁ、帰りたいなぁと思わずに過ごせる相手はこの人くらいだ。思えば、この人だって最初は気まずい対象で、「自分といて楽しいのかな」と思い続けていた。結局、私が彼の相談に乗ってやるつもりで赴いたのに、ほとんど私の恋愛の話をしていた。恋愛なんて私には無理だという話だが。

I go to the office to work.

Between you and me, I always practice translating by using AI while I am at my office. My colleagues peer into the PC I am operating and never fail to say what I am doing. That is why I ask AI to use only English. Then, they notice I use English and go off somewhere. Probably they think I am a very unlikeable man. Me too. At the expense of my reputation (if any), my English skills don't seem to be improved at all, as you see.

Hope is a good thing.

また『ショーシャンクの空に』を見た。良い映画だなと思いつつも、そこまで好きなわけではなかった。でも、テレビでやっているのを見かけると、何度でも最後まで見てしまう。最近、ますますこの映画が自分のことのように思えて、好きになってきている。

何もかも諦めて、気がつけば仕方なく今の仕事をして暮らしている私。でも、閉ざされた日常を過ごす中で自分が夢を捨てきれないことに気付く。いまここでこういう風に過ごしているのは、当然私にも責任の一端がある。とはいえ、自分で選び取ったものなどどれほどあるだろうか。この生活には慣れた。人間にも恵まれている。危険を冒して出て行く理由はないのかもしれない。でも、私はいま生きていると言えるのだろうか。ずっと人生を捨て続けてきたような気がする。自分の人生に誠実に向き合わなかったことに対する「償い」はもう十分やったのではないか。誰にも奪えない「希望」を胸の内に燃やし続けて、人知れずここから出て行くための準備をずっと続けている。

小さなロックハンマーで主人公が壁に大穴をぶち開けたように、きっと私も――と思う。

物欲はない

基本的にほとんど物欲はない。欲しいものを挙げればキリはないが、なければないで別に構わないと思えるものばかり。ご飯だって美味しいに越したことはないけど、別に美食家でもない。王将でガッツリ中華を食えば満足するくらいの人間だ。服だってオシャレに興味がないわけではないけど、私が何を着たところで別に何も変わるまいと思えばこそ、毎日のようにユニクロの上下で済ませている。

強いて贅沢を言うなら「仕事をしたくない」というくらいだが、これも今の仕事が嫌なだけであって、社会との関わりを完全に絶ちたいわけでもなく、自分に合った仕事なら続ける意思はある。

先のことを考えたら不安しかない。それを和らげることができるくらいのお金があったら十分だ。つまり、お金のことを心配しなくて良いくらいのお金があれば良い。というより、お金のことを考えなくて済む状況が欲しい。だから、お金がないのは当然困るとしても、お金が沢山ありすぎるのもまた難がある。最近は株高で投資ブームだけれど、お金を増やすチャンスだ! と考えるのも嫌だ。

こんな控えめな望みしか持っていないのだから、2,3億くらい気前よくくれたって良いじゃないかと思う。

『陽はまた昇る』

CSで再放送されている『陽はまた昇る』を何故か観ている。15年前の作品。これくらいの時代のドラマを見ている時間ほど平和な時間はない。キャストがみんな若いけど、自分の中ではみんなこれなんだよ。佐藤浩市はいつまで経ってもこれだし、三浦春馬も池松壮亮も、画面の中の彼らは私の中にいる彼らの姿と一致する。

近年の警察学校ものの走りか、極端な教官と生徒たちをぶつけて、教官自身にも知られざる過去があるみたいな作劇はかなりオーソドックス。

前日譚というか、今回の話に連なる、教官の刑事時代のエピソードがあるみたいで、その部分を謎としてドラマが展開しているんだが、それを観てる人には謎でも何でもないのだろうか。

三浦春馬の演技を観ていると、劇団ひとりに見えてくるのは、ひとりが春馬をオマージュしているからか。年齢的に言うと春馬がひとりのフォロワーになるはずなんだけど。

無駄な休み

自分の年齢の半分くらいの従姉妹と映画村に行く約束をしていた(何か知らんが毎年の恒例行事になっている)のだが、大雨で電車が動かないので取りやめにした。台風が近づいてくるので当日に判断しようという話をしていたが、まさかこんなに降るとは思わなかった。

この日、私は仕事を休みにしており、朝一で出町ふたばに赴き、京都に住む祖母の家を尋ねる予定だった。映画村は午後からだ。始発に乗るために早起きしたところ、ひどく雷が鳴っていたので様子を見ていたら、外に出るのが憚られるような雨音が聞こえて来てそのまま待機することにした。このとき無理矢理出て行くこともできたのだが、そうなると出先で電車が完全にストップしてしまい、エラいことになるところだった。

結局、一度早起きしたものの、そこから二度寝、三度寝と繰り返して一日中寝て過ごした。いや、よく考えたら早起きも何も一睡もしていなかった。徹夜してしまったものを、一日かけて取り戻しただけである。

それにしても、この日、職場も大半の人間が休んでいたようで、公共交通機関の関係で私も特別休暇の対象だった。休みを一日捨てたようなものである。それが一番悔しい。